『あの素晴しい日々 加藤和彦、「加藤和彦」を語る』インデックス


1章 子供時代

 

1・1 たいめいけん

1931年に創業した日本橋の老舗洋食店。

1・2 マイク眞木

日本のフォーク・シンガー。1944年生まれ。日本大学在学中の1963年にモダン・フォーク・カルテットに参加。1966年、「バラが咲いた」でレコード・デビュー。俳優としても活動。

1・3 ボブ・ディラン

アメリカのシンガー・ソングライター。1941年生まれ。1962年にフォーク・シンガーとしてレコード・デビュー。「風に吹かれて」「時代は変わる」など多くのヒット曲を生み出し、ザ・ビートルズをはじめ世界中のミュージシャン達に大きな影響を与えた。『フリーホイーリン』は1963年に発表されたセカンド・アルバム。『ア・タイムス・ゼイ・アー・ア・チェンジン(時代は変る)』は1964年のサード・アルバム。

1・4 中村とうよう

日本の音楽評論家。1932年生まれ。ラテン音楽に造詣が深かったが、1960年代にアメリカのフォーク・ソングを積極的に紹介。その後、ワールドミュージックなど多彩なジャンルで執筆。1969年、田川律、飯塚晃東らと「ニュー・ミュージック・マガジン」を創刊。2011年、没。

1・5 マイルス・ディヴィス

アメリカを代表するジャズ・トランぺッター。1926年生まれ。クール・ジャズ、ハード・バップをはじめ、ひとつのスタイルに留まらず、常に時代の先端のジャズへのアプローチを続け、多くの名作を残した。1991年、没。

1・6 ハヤカワミステリ

1953年に早川書房から創刊されたミステリー・シリーズ。第1巻はミッキー・スピレインの「大いなる殺人」だった。現在も刊行中。

1・7 『暮しの手帖』

編集者の花森安治らが1948年に季刊誌[美しい暮しの手帖]として創刊。1958年に[暮しの手帖]と改名。コマーシャリズムに頼らない生活情報誌として根強い支持を受け、現在も刊行中。

1・8 PX

POST EXCHANGEの略。アメリカ軍の売店・酒保を指す。太平洋戦争後、日本に駐留した米軍が、各地の日本の商業施設を接収して米軍兵士向けPXとした。

1・9 闇米(やみごめ)

太平洋戦争が始まった1942年、食糧管理法が制定され、米は配給制となった。しかし、配給だけでは足りず、直接生産者から購入するなど、同法に反して取引される闇米が流通。食糧事情が改善された1950年代頃からは、闇米は配給では買えない良質の米を手に入れる手段となり、1969年には自主流通米として黙認される。米の配給制度は1981年まで続き、食糧管理法は1995年に廃止。

1・10 細野晴臣

日本のミュージシャン、音楽プロデューサー。1947年生まれ。1969年、エイプリルフールのメンバーとしてデビュー。同年、はっぴいえんどを結成。はっぴいえんど解散後、キャラメル・ママ、ティン・パン・アレーとしての活動と並行してソロ活動を展開。1978年、坂本龍一、高橋幸宏とイエロー・マジック・オーケストラ(YMO)を結成し世界的評価を受ける。YMO解散後も国際的アーティストとして活動を続けている。

1・11 古今亭志ん生(五代目)

落語家。1980年生まれ。1910年頃から落語家として活動を始め、1939年に五代目古今亭志ん生を襲名。戦後、高座やラジオを通じて大人気となり、東京を代表する落語家として活躍した。1973年、没。

1・12 林家三平(初代)

落語家。1925年生まれ。テレビの司会をきっかけに人気が爆発し、新作を中心にそれまでの様式にとらわれない話術で新時代の落語家として大活躍した。1980年、没。現在の林家三平は二代目。

1・13 三遊亭金馬(三代目)

落語家。1894年生まれ。1913年頃から落語家として活動を始め、1926年、三代目三遊亭金馬を襲名。わかりやすく明晰な語り口で人気を集めた。1964年、没。現在の三遊亭金馬は五代目。

1・14 シャンバロー

日本のお笑いグループ。1947年頃から活動を始め、1950年にシャンバローと名乗る。アコーディオンや三味線を弾いて、邦楽、洋楽を取り混ぜた音楽ネタで人気を集めた。

1・15 大滝詠一

日本のミュージシャン、音楽プロデューサー。プロデューサーとしての表記は大瀧詠一。1948年生まれ。1969年、はっぴいえんどのメンバーとしてデビュー。はっぴいえんど解散後、ナイアガラ・レーベルを設立し、自らのレコードを発表するとともに、山下達郎、大貫妙子らが在籍したバンド、シュガー・ベイブをデビューさせるなどプロデューサーとしても活動。2013年、没。

1・16 S盤アワー

日本のラジオ番組。日本ビクターが自社の洋楽レコードを流すために、1952年に文化放送でスタートした。パーソナリティは帆足まり子。

1・17 L盤アワー

日本のラジオ番組。日本コロムビアが自社の洋楽レコードを流すために、1954年にラジオ東京(TBSラジオ)でスタートした。パーソナリティは薗冷子。

1・18 9500万人のポピュラー・リクエスト

日本のラジオ番組。本格的なハガキ投票の洋楽チャート番組として、1963年に文化放送系列でスタート。パーソナリティは小島正雄。その後「ALL JAPAN POP 20」、「全国ポピュラーベストテン」と名を変えて長寿番組となった。

1・10-2 古今亭今輔(五代目)

落語家。1898年生まれ。1914年頃から落語家として活動。1941年、五代目古今亭今輔を襲名。「青空お婆さん」などの新作落語家として人気を得ていたが、古典落語も非常に上手だった。1976年、没。現在の古今亭今輔は六代目。

1・20 エルヴィス・プレスリー

アメリカのロック歌手。1935年生まれ。1954年に「ザッツ・オール・ライト」でデビュー。「ハートブレイク・ホテル」「ハウンド・ドッグ」など多数のヒット曲を放ち、キング・オブ・ロックンロールと言われた。1960年代には映画出演に力を入れ、多数の主演映画を残しており、映画挿入曲からヒットを生み出している。1977年、没。『GIブルース』は1960年の主演映画。『ブルー・ハワイ』は1961年の主演映画。

1・21 ソノシート

1958年にフランスで開発された薄型レコード。音質は劣るが安価で曲げに強く扱いやすいなどの利点をもっていた。日本でも1959年にソノシートを封入した雑誌形式の「月刊朝日ソノラマ」が刊行されるなど、広く親しまれた。

1・22 『アラモ』

1836年にテキサスで起きたアラモ砦の闘いをテーマにした西部劇映画。ジョン・ウェインが制作・監督・主演。1960年公開。主題曲「遥かなるアラモ」も大ヒットした。

1・23 『リオ・ブラボー』

ハワード・ホークス監督の西部劇映画。主演はジョン・ウェイン。1959年公開。歌手のディーン・マーティン、リッキー・ネルソンも出演。挿入歌「ライフルと愛馬」「シンディ」などを聴かせている。主題曲「皆殺しの歌」「リオ・ブラボー」もヒット。

1・24 トニー・ザイラー

オーストリアのスキー選手。1935年生まれ。1956年の冬季オリンピックで回転、大回転、滑降で金メダルを取り、世界的スターとなる。その後、映画俳優となって甘いマスクで人気を博した。『黒い稲妻』は1958年の主演映画。『白銀は招くよ』は1959年の主演映画。主題歌「白銀は招くよ」も彼自身が歌ってヒットしている。2009年、没。

1・25 アイビー(・ファッション)

IVYリーグと呼ばれるアメリカ東部の学生のスタイルをヒントにVANヂャケットの石津謙介が提唱し、1960年代に流行した若者ファッション。ブレザーやボタンダウン・シャツなどを好み、トラッド色が強い。

1・26 みゆき族

1964年頃の若者の流行現象。銀座みゆき通り周辺を、アイビー風ファッションで闊歩する若者が急増し話題となった。

1・27 ブラザーズ・フォア

アメリカのフォーク・グループ。1957年にシアトルで結成され、「グリーン・フィールズ」「七つの水仙」などをヒットさせた。メンバー・チェンジをしながら現在も活動中。

1・28 PP&M(ピーター・ポール&マリー)

アメリカのフォーク・グループ。1961年に、ピーター・ヤーロウ、ポール・ストゥーキー、マリー・トラヴァースにより結成。「パフ」「レモン・トゥリー」、ボブ・ディランの「風に吹かれて」など多くのヒット曲を持っている。1970年に解散したが、1978年に再結成。2009年、マリー・トラヴァースが死去。

1・29 キングストン・トリオ

アメリカのフォーク・グループ。1957年に結成され、1958年にレコード・デビュー。「トム・ドゥーリー」を大ヒットさせて、アメリカのモダン・フォーク・ブームの火付け役となる。その後も多くのフォーク・グループに影響を与えていくが、1967年に解散。

1・30 ビートルズ

イギリスのロック・バンド。メンバーは、ジョン・レノン(ギター)、ポール・マッカートニー(ベース)、ジョージ・ハリスン(ギター)、リンゴ・スター(ドラムス)。1962年に「ラヴ・ミー・ドゥ」でレコード・デビュー。1964年にはアメリカでも成功し、世界的人気を得る。「プリーズ・プリーズ・ミー」など多くのヒット曲を放ち、1960年代のポップ・ミュージック・シーンをリードしたが1970年に解散。『リボルバー』は1966年にリリースしたアルバム。

1・31 ウォーカー・ブラザーズ

アメリカのロック・バンド。メンバーはスコット・ウォーカー、ジョン・ウォーカー、ゲイリー・ウォーカーだが、本当の兄弟ではない。イギリスに渡って1965年にレコード・デビュー。「太陽はもう輝かない」「ダンス天国」などをヒットさせたが67年に解散。その後、1975年に再結成され、数年活動。ヴォーカルのスコット・ウォーカーはソロ・シンガーとしても活躍した。

1・32 ビージーズ

イギリスのヴォーカル・グループ。バリー、ロビン、モーリスのギブ三兄弟を中心に結成される。ギブ家がオーストラリアに移住していたため、1963年にオーストラリアでデビュー。1967年「ニューヨーク炭鉱の悲劇」でワールドデビューし、「ホリデイ」「マサチューセッツ」など多くのヒット曲を生み出す。1970年代後半には「ステイン・アライヴ」などがディスコを中心に大ヒットした。

1・33 ジャック・ブレル

ベルギー出身のシャンソン歌手。1929年生まれ。1950年頃から自作の曲を歌い始め、大歌手のジュリエット・グレコに認められて脚光を浴びる。自由でクリエイティブな楽曲、そして歌唱で人気とともに高い評価を受けていたが、1978年、没。彼の曲は英訳され、アメリカやイギリスでも多くの歌手に歌われている。

1・34 ザ・ベンチャーズ

アメリカのギター・インストゥルメンタル・ロック・バンド。1959年に結成され、1960年に「ウォーク・ドント・ラン」をヒットさせて脚光を浴びた。とくに日本に与えた影響は絶大で、1965年の来日をきっかけに日本でエレキ・ブームが巻き起こった。現在も活動中で、来日公演も盛んに行っている。

1・35 ザ・ビーチ・ボーイズ

アメリカのロック・グループ。ブライアン、デニス、カールのウィルソン兄弟を中心に1961年に結成。同年「サーフィン」でレコード・デビュー。その後、「サーフィンU.S.A.」「サーファー・ガール」などをヒットさせ、ウエスト・コーストのサーフィン・ミュージックの中心的グループとして活躍。その後のミュージック・シーンに大きな影響を与えたグループのひとつで、現在もメンバー・チェンジをしながら活動中。

1・36 ミュージックライフ

日本の音楽雑誌。戦前から発行されていた『歌の花籠』を前身に、1951年に復刊した月刊誌。洋楽を中心にポップス・シーンを取り上げ、ビートルズなどを積極的に紹介した。星加ルミ子は1965年から1975年まで同誌編集長を務めた。1998年休刊。

 

 

 

2章 ザ・フォーク・クルセダーズ

 

2・1 メンズクラブ

日本の男性ファッション誌。1955年に創刊され、アイビー・ファッション、トラディショナル・ファッションをリードしていった。現在も刊行中。

2・2 アート・ロック

1960年代後期に登場した長時間演奏や複雑なアレンジなど、革新的な試みを展開していったクリームなどのロック・グループや作品を指す言葉。同じように使われた言葉としてニュー・ロックがある。

2・3 クリーム

イギリスのロック・バンド。1966年に、エリック・クラプトン(ギター)、ジャック・ブルース(ベース)、ジンジャー・ベイカー(ドラムス)によって結成される。ブルースをベースにしながら、高度な技量を駆使した即興性の高い演奏で人気を集めた。1968年に解散したが、伝説のグループとして高く評価されている。

2・4 レッド・ツェッペリン

イギリスのロック・バンド。1968年、ジミー・ペイジ(ギター)、ロバート・プラント(ヴォーカル)、ジョン・ポール・ジョーンズ(ベース)、ジョン・ボーナム(ドラムス)によって結成される。ハード・ロックを中心としながら、優れた演奏力で幅広い音楽性を展開し、世界的な人気を得た。1980年、ジョン・ボーナムの死去によって解散。

2・5 チャンバラトリオ

日本のお笑いグループ。時代劇映画の殺陣師を中心に1963年に結成され、本格的な剣劇シーンを使ったコントで関西を中心に人気を博した。初期は3人組だったが、その後は4人で活動することが多かったがトリオという名前のまま活動。張り扇を使ったギャグも人気を博した。

2・6 森山良子

日本のシンガー・ソングライター。1948年生まれ。高校生時代からフォーク・ソングを歌い、1967年に「この広い野原いっぱい」でデビュー。その後、ジャンルに捉われずにシンガーとしてコンスタントに活動。「さとうきび畑」「涙そうそう」などをヒットさせている。

2・7 浜口庫之助

日本のソングライター。1917年生まれ。演奏家・歌手として活動していたが、その後、作詞・作曲家となり、1959年「黄色いさくらんぼ」(歌・スリーキャッツ)などで注目される。その後も「星のフラメンコ」(歌・西郷輝彦)「バラが咲いた」(歌・マイク眞木)など多くのヒット曲を生む。1990年、没。

2・8 松山 猛

日本の作詞家、ライター、編集者。1946年、京都生まれ。きたやまおさむ、加藤和彦らと親交を持ち、ザ・フォーク・クルセダーズ、サディティック・ミカ・バンドらの作詞を手がける。その後、編集者・ライターとして「ポパイ」、「ブルータス」の創刊に立ち会う。時計に対する知識と鑑識眼でも知られる。著書『少年Mのイムジン河』など多数。

2・9 高嶋弘之

日本の音楽プロデューサー。1934年生まれ。1960年東芝音楽工業設立に参加。ビートルズの日本でのプロモートを担当。その後、邦楽担当となりザ・フォーク・クルセダーズなどを担当。1969年に東芝を退社するが、その後も音楽プロデューサーとして多彩な活躍を続けている。バイオリニスト高嶋ちさ子の父。

2・⒑ バラッド

欧米の伝承的な音楽スタイルのひとつ。物語や寓話性のある詞をもった歌のこと。

2・11 マイケル・ジャクソン

アメリカの歌手。1958年生まれ。1966年、兄弟でジャクソン5を結成してデビュー。「帰ってほしいの」などを大ヒットさせる。1971年にソロ・デビュー。1982年に「スリラー」を大ヒットさせるなど、スーパースターとして活躍。1985年にはビートルズの楽曲管理会社を手に入れている(現在はソニーATV)。2009年、没。

2・12 亀渕昭信

日本のラジオ・パーソナリティー。1942年生まれ。大学卒業後、ニッポン放送に入社。1967年、「オールナイトニッポン」制作に参加。1968年から自らもラジオに出演するようになり、「オールナイトニッポン」の人気パーソナリティとなる。カメ&アンコーとして、ザ・ズートルビーも歌った「水虫の唄」をリリース。2008年、ニッポン放送を退社し、フリーで活動している。

2・13 11PМ

日本のテレビ番組。1965年に月曜日から金曜日までの帯番組として放送開始。それまで注目されていなかった夜11時台の情報バラエティとして、時事問題、文化、風俗からお色気まで幅広く取り上げた。大橋巨泉、愛川欽也、藤本義一らが司会を務め、1990年まで放映された。

2・14 高石ともや

日本のフォーク・シンガー。1941年生まれ。1966年、「かごの鳥ブルース」でレコード・デビュー。全国を放浪して歌い、「受験生ブルース」などをヒットさせるが、1969年にソロ活動を休止。1971年にザ・ナターシャ・セブンを結成して活動を再開している。

2・15 秦 政明

日本の音楽プロデューサー。1930年生まれ。1962年、関西を中心とした興行会社、アート・プロモーションを設立。1966年に高石ともやと出会いマネジメントをはじめ、翌年、高石事務所を設立。岡林信康、ザ・フォーク・クルセダーズなど多くのフォーク・シンガーを抱える。1969年にはインディーズ・レーベル、URC(アングラレコードクラブ)を発足させるなど、日本のフォーク・シーンの推進役的役割を果たした。2003年、没。

2・16 岡林信康

日本のシンガー・ソングライター。1946年生まれ。高石ともやに会って自分でも曲を作って歌うようになる。1968年、「山谷ブルース」でレコード・デビュー。1970年にははっぴいえんどをバックに歌った。1970年代以降、表現スタイルを模索しながら活動を続け、1980年代には日本の伝統的リズムをベースにした「エンヤトット」を打ち出している。

2・17 中川五郎

日本のシンガー・ソングライター。1949年生まれ。高石ともやに会って自作曲を歌うようになる。高石ともやがヒットさせた「受験生ブルース」「主婦のブルース」などは中川五郎が原曲をつくっている。発表したレコードはそれほど多くはないが、コンスタントに活動を続けている。翻訳家、文筆家としても活動している。

2・18 五つの赤い風船

日本のフォーク・グループ。1967年に西岡たかしを中心に結成された。「遠い世界に」などをヒットさせたが、1972年に解散。その後、西岡たかしはソロ活動を行うとともに、プロデューサー、ソングライターとしても活動している。

2・19 大島 渚

映画監督。1932年生まれ。1959年に『愛と希望の街』で映画監督デビュー。1960年に『青春残酷物語』で脚光を浴びる。社会性の強い作品を数多く手掛け『愛のコリーダ』『戦場のメリークリスマス』など国際的に高く評価された作品も多い。2013年、没。『帰って来たヨッパライ』は1968年の作品。

2・20 メイト・7(メイトセブン)

日本のテレビ番組。大阪・毎日放送制作。1968年4月から9月まで放映された。ザ・フォーク・クルセダーズが司会となった音楽バラエティ番組。

2・21 (ハナ肇と)クレージーキャッツ

日本のコミック・バンド。1955年、ドラマーのハナ肇をリーダーに結成されたジャズ・バンド。コミカルなステージが話題となり、コミック・グループとして人気を博し、1961年に「スーダラ節」でレコード・デビュー。ハナ肇、植木等(ヴォーカル、ギター)、谷啓(トロンボーン)らはコメディアンとしても大活躍した。2023年に犬塚弘(ベース)が死去したことで、メンバー全員が故人となった。

2・22 おとなの漫画

日本のテレビ番組。1959年3月から1964年12月までフジテレビで放映された。ハナ肇とクレージーキャッツによる時事コント番組。青島幸男、永六輔らが脚本構成で参加していた。作曲家のすぎやまこういちは、この番組のディレクターだった。

2・23 石田達郎

1918年生まれ。ニッポン放送編成局長を経て、1966年にパシフィック音楽出版(PMP)を設立し、初代社長となる。1970年にはキャニオンレコードを設立し初代社長に。その後、ニッポン放送社長、フジテレビ社長を歴任。日本の新しい音楽の流れを積極的にバックアップした。1990年、没。

2・24 サトウハチロー

日本の詩人、作家。1903年生まれ。1920年頃から童謡詩を書き始め、その後、小説や歌謡曲の歌詞も書くようになる。童謡の代表作として「ちいさい秋みつけた」「うれしいひなまつり」など、歌謡曲では「あゝそれなのに」「リンゴの唄」などがある。1971年に日本音楽著作権協会会長に就任。1973年、没。

2・25 サエキけんぞう

日本のロック・ミュージシャン、音楽プロデューサー。1958年生まれ。1980年、ハルメンズでデビュー。その後、パール兄弟のヴォーカリストとして活動。作詞家としても多くの歌手に作品を提供。再結成したサディスティック・ミカ・バンドにも作品を書いている。歯科医師免許を持つ。

2・26 GS(グループ・サウンズ)

1965年頃から流行した、日本のギター・バンド・ムーブメントの総称。ジャッキー吉川とブルー・コメッツ、田辺昭知とスパイダース、ザ・タイガースなど多くの人気グループを輩出。レコードでは歌謡ロックタイプのオリジナル曲をリリースすることが多かったが、ステージでは欧米のロック・バンドのカヴァーが中心だった。1970年頃にブームは下火となる。

2・27 ザ・ゴールデン・カップス

日本のグループ・サウンズ・グループ。1966年に、デイヴ平尾を中心に横浜で結成された。1967年「いとしのジザベル」でデビュー。ブルース・ロック色の強い演奏で洋楽ファンにも高い評価を受けていった。1972年、解散。

2・28 バイタリス・フォーク・ビレッジ

日本のラジオ番組。1966年にニッポン放送でオンエア開始。最初はアマチュアのオリジナル曲募集番組だった。1972年「ライオン・フォーク・ビレッジ」と改題。1981年まで放送された。

2・29 ジャックス

日本のロック・バンド。1965年頃から活動を始め、1967年に早川義夫(ヴォーカル)、水橋春夫(ギター)、谷野ひとし(ベース)、木田高介(ドラムス)となる。1968年、「からっぽの世界」でレコード・デビュー。その後、水橋が脱退し、つのだひろが加入。前衛的な音楽性で根強いファンを持つが、1969年に解散。

2・30 ドアーズ

アメリカのロック・バンド。1965年にジム・モリスン(ヴォーカル)らによって結成され、1967年にアルバム『ハートに火をつけて』でデビュー。反抗的でスキャンダラスなイメージを持つ音楽性で圧倒的な人気を得る。1971年、ジム・モリスンは謎の死を遂げる。バンドはその後も維持されたが、1972年に解散。

2・31 はっぴいえんど

日本のロック・バンド。1969年に、大滝詠一(ヴォーカル、ギター)、鈴木茂(ギター)、細野晴臣(ベース)、松本隆(ドラムス)によって結成。1970年、アルバム『はっぴいえんど』で、日本語詞による新しいロック表現を切り開く。アルバム3枚を発表して1973年に解散した。

2・32 はしだのりひことシューベルツ

日本のフォーク・グループ。1968年、ザ・フォーク・クルセダーズに在籍していたはしだのりひこが、越智友嗣、杉田二郎、井上博と結成し、1969年「風」をヒットさせる。1970年に解散。

 

 

3章 ソロ前期

 

3・1 ヒッピー

1960年代中頃、アメリカ西海岸で広がった、現代社会の価値観を否定し、自由と平和を主張する共同体的ライフスタイルを模索していった人々。1970年代後期には現象としては下火となるが、その思想はその後の世代にも大きな影響を与えている。

3・2 ギンガム

日本のPA(音響)会社。日本に本格的なステージ音響会社が無い状況の中で海外でコンサートを観て来た加藤和彦が、1972年にイギリスのバンド、ピンク・フロイドが使用して話題となったWEM(イギリスのPA機器、楽器会社)の最新システム機材を私財を投じて購入し、ロックに特化したPAサービス会社として発足。その後、オリジナルスピーカー、コンソールを制作して1970年代に一世を風靡した。 日本初の大規模野外コンサート「ワン・ステップ・フェスティバル」もギンガムの存在が無かったら開催出来なかったと言われている。加藤和彦やサディスティック・ミカ・バンドはもとより矢沢永吉、荒井由実、アリス、ガロ、郷ひろみ、キャンディーズ、サザンオールスターズと多くのアーティストが使用した。コンサートビジネスの成長と共に海外の最新鋭システムを導入するPA会社が頭角を現しアーティスト達はギンガムから離れて行った。

3・3 アメリカン・グラフィティ

アメリカ映画。1962年夏のアメリカ西海岸を舞台にした青春映画。当時の多くのヒット曲が使われて話題となり、オールディーズ・ブームが起きた。ジョージ・ルーカス監督。

3・4 スティーブ・ジョブス

アップル社の共同創設者。1955年生まれ。1976年、アップル・コンピュータを立ち上げ成功。1985年にアップル社を離れるが、96年に復帰。最高経営責任者として辣腕をふるう。2011年、没。

3・5 グレイトフル・デッド

アメリカのロック・バンド。1965年にジェリー・ガルシアを中心に結成され、1967年にアルバム『グレイトフル・デッド』でレコード・デビュー。アドリブによる長時間演奏を得意とした。ヒッピー・ムーブメントの中心的存在として1990年代まで高い人気を保ったが、1995年、ジェリー・ガルシアの死去によって解散。

3・6 細川 健

プロデューサー。1948年生まれ。1970年、大阪万国博覧会の音楽イベント企画に携わったことをきっかけに、若い日本のミュージシャンたちとアメリカを旅する「ヤング・ジャパン・ツアー」を企画。このツアーには加藤和彦も参加した。1971年、ヤングジャパンを設立し、外国ミュージシャンの招へいや新人のマネジメントを行い、アリス、バンバンなどを輩出した。2013年、没。

3・7(福井)ミカ

高校生の時に京都でアマチュアフォーク活動を行い、加藤和彦にギターを習う。1970年に加藤と結婚。1972年、サディスティック・ミカ・バンドのヴォーカリストとして「サイクリング・ブギ」でデビューする。1975年にミカ・バンドは解散し、前後して加藤和彦と離婚。現在は料理研究家として活動している。

3・8 谷村新司

日本のシンガー・ソングライター。1948年生まれ。ロック・キャンディーズを経て1971年にアリスを結成。「今はもうだれも」「冬の稲妻」などをヒットさせるが1981年に活動停止。アリスと並行してソロ活動も行い、1980年の「昴」などをヒットさせている。アジア圏でも高い人気を得ている。2023年、没。

3・9 アゴアシ

芸能業界用語で、食事(アゴ)、交通(アシ)のこと。食費・交通費の負担についての用語。

3・⒑ ジミ・ヘンドリックス

アメリカのロック・ギタリスト。1942年生まれ。R&Bシンガーのバック・ギタリストとして活動後、イギリスに渡り、1966年、アルバム『アー・ユー・エクスペリエンスト?』でデビュー。驚異的なギター・テクニックと大胆な音楽性で脚光を浴びた。翌1967年には、モンタレー・インターナショナル・ポップ・フェスティバルに出演し、アメリカでも人気を得るが、1970年に急逝。現在でも世界最高のロック・ギタリストと言われている。

3・11 ジャニス・ジョプリン

アメリカのロック・シンガー。1943年生まれ。1966年に、ビッグ・ブラザー&ホールディング・カンパニーに歌手として参加。翌1967年、モンタレー・ポップ・フェスティバルで脚光を浴びる。ソウルフルなシャウト唱法で世界的人気を集めたが、1970年に死去。その後のロック・シンガーにも大きな影響を与えている。

3・12 CCR(クリーデンス・クリアウォーター・リバイバル)

アメリカのロック・バンド。1967年に活動を開始し、翌1968年に「スージーQ」のヒットで注目を浴びる。その後「プラウド・メアリー」「雨を見たかい」などヒットを連発させたが、メンバー間の不和もあり、1972年に解散した。

3・13 エリック・アンダーソン

アメリカのシンガー・ソングライター。1965年にデビュー。1972年のアルバム『ブルー・リヴァー』などで知られる。代表曲の「カム・トゥ・マイ・ベッド・サイド」は、日本でも高石友也、岡林信康、加藤和彦らによってカヴァーされている。加藤和彦ヴァージョンのタイトルは「ぼくのそばにおいでよ」。

3・14 児雷也顛末記

アルバム『ぼくのそばにおいでよ』のジャケットに掲載した抗議文。内容は以下。

 「児雷也顛末記」 加藤和彦

 小生の歌曲11曲を収録したLPについて御報告申しあげます。 小生7月以来歌曲を作っては録音し8月現在で未発表の曲、Re Takeの曲3曲、合計12曲録音完了の状態にありました。

 実を言えば12曲といってもその内1曲は10分を越し、残り数曲も5~6分の長さに至ってしまいました。レコード業界の常識から言えばこの長さは奇異と思われるのが当然ですが、内容が特殊故に小生にとっては必要な長さでした。そこで東芝レコード側には2枚組にしてくれる様に要請し曲順も決め、アルバム・タイトルを「児雷也」として提出しました。担当ディレクターに聞きました所、むずかしいけれども検討してみようという事になったのでした。

 売れにくいものは出すなというのがレコード会社の感覚からすれば当然の行為であったかもしれませんが、結局LPは1枚になってしまい、アルバム・タイトルも「ぼくのそばにおいでよ」などという下品なものに変更され、12曲中「児雷也冒険譚」と「オロチマルの逆襲」の2曲がカットされ、その代わりに「ぼくのおもちゃ箱」が挿入され、曲順も著しく変更されてしまいました。

 この12曲を一枚のLPに収納するのは不可能ではないでしょうが音質が著しくそこなわれる事は明白であります。しかし販売という点においては2枚より1枚の方が売りやすいというのはいちおう当然と言えましょう。しかしLPにとって一番重大であるアルバム・タイトルをかってに変更し、おまけに数曲カットし以前シングルで出した曲を水増しに入れるなどという事は、作者の意図を全く無視し、かつ聴者をも馬鹿にした行為といえましょう。それも小生の同意なくして販売会議とやらで決定されたそうです。しかもその旨を東芝側からでなく他から連絡を受けた時にはもうすでにレーベルの印刷にまわっていたという事です。

 小生としては(1)2枚組を1枚にしたのは認める。(2)小生の方で曲をカットし1枚にふさわしく曲順を変更する。(3)アルバム・ジャケットの装幀及び内容については小生の意見も聞き入れる。(4)アルバム・タイトルはもと通り「児雷也」にする。と申し立てたのです。しかるに(1)については異議なし(2)~(4)については認めずという事でした。小生としては我が意としたものが出せないのならばもうLPは出さなくても良いと申し立てた所、「児雷也」というタイトルはおもしろいが、それにともなう内容が貧弱で統一性に欠けるという返答でした。小生としては大見栄を張ったタイトルではなく「児雷也」という言葉通り子供の頃を思い出してくれれば良いという考えのもとにつけたのでした。又、「オロチマルの逆襲」は小生の一番気に入った曲なので、はなはだ残念でありました。結局、小生はこのLPに関してははなはだ無責任の様ですが曲以外には全く関与しない事にし、この文を載せるという事で落着しました。

 かような事は他のアーチストに対してもなされているはずで、これでは日本のレコードというものはいつまでたっても消耗品でしかなく、一個の芸術品となり得る日ははるか彼方であります。アーチストの芸術性に関する権利の保護という点においても貴社の発展(この場合は内容的発展を指している)という点においても反省を要請する次第です。(1969.9.12)

 

「お買い上げの皆様へ」

 まことにあいすみませんが、今回はこのような事情なので前述2曲は次のLPにまわすことになりました。 こんどこそ小生の勝利となるべく努力するつもりです。何卒御期待下さいますと共に御支援下さい。

3・15 佐藤 信

日本の演出家・劇作家。1943年生まれ。1966年、アンダーグラウンドシアター自由劇場を設立。1968年、演劇センター68/71を設立し、大型黒テント劇場による公演を精力的に行う。この他、オペラをはじめ多彩な作品の演出を手掛け、1983年にはYMOの散開ライヴを演出している。「日本の幸福」は、1968年に手掛けた同名のテレビドラマの音楽として加藤和彦との共作。

3・16 柳田ヒロ

日本のキーボード奏者。1949年生まれ。1966年にGSグループ、ザ・フローラルに参加。1969年に細野晴臣らとエイプリルフールを結成。その後もフード・ブレイン、新六文銭などのグループ、およびソロで活動を続ける。

3・17 つのだひろ

日本のミュージシャン。1949年生まれ。ドラマーとしてさまざまなセッションを行う。また、1971年には歌手として「メリー・ジェーン」をヒットさせる。1972年にサディスティック・ミカ・バンドの結成に参加後、キャプテンひろ&スペースバンドを結成。

3・18 神谷重徳

日本のミュージシャン。ジャズ・ギタリストとして活動し、多くのセッションに参加してきた。その後、シンセサイザーに取り組み、『MU』『ファラオの墓』などのシンセサイザー・アルバムをリリースしている。

3・19 深町 純

日本のミュージシャン、アレンジャー。1946年生まれ。キーボード奏者として、多くのミュージシャンのセッションやアレンジを手掛けるとともに、1971年の『ある若者の肖像』をはじめソロ・アーティストとしても活動。2010年、没。

3・20 クニ河内、チト河内

共に日本のミュージシャン、アレンジャー。兄のクニ河内はキーボード、弟のチト河内はドラムスを担当してバンド結成。バンドはザ・ハプニングス・フォーとして1967年に「あなたが欲しい」でデビュー。1972年の解散後、共にアレンジャーとして活動。チト河内は1974年にトランザムを結成している。

3・21 ジム・ウエップ

アメリカのシンガー・ソングライター。1946年生まれ。1967年にヒットしたグレン・キャンベルの「恋はフェニックス」、フィフス・ディメンションの「ビートでジャンプ」の作家として注目された。その後、シンガー・ソングライターとして活動しているが、作家としても高い評価を得ている。

3・22 朝妻一郎

日本の音楽プロデューサー。1943年生まれ。音楽評論活動を経て、1966年に音楽出版社、パシフィック音楽出版に入社、ザ・フォーク・クルセダーズをはじめ、サザンオールスターズ、オフコースなど、多くのミュージシャンの活動にかかわる。

3・23 四方義朗

日本のファッション・プロデューサー。1948年生まれ。ミュージシャンとしても活動し、1971年に加藤和彦のアルバム『スーパー・ガス』に参加。翌1972年には、つのだひろ&スペースバンドにベーシストとして参加。その後、雑誌編集者、ファッション・プロデューサーなどとして活動。

3・24 ドノヴァン

イギリスのシンガー・ソングライター。1946年生まれ。フォーク・シンガーとして活動していたが1965年にレコード・デビュー。ボブ・ディランやビートルズとも交流しながら、ファンタジックで個性的な作品を発表し、人気を得た。

3・25 重実 博

日本の音楽プロデューサー。ベーシストとしてスタジオ・セッションに参加していたが、加藤和彦、サディスティック・ミカ・バンドのマネージャーとなり、イギリスツアーにも参加。その後、プロデューサーとして稲垣潤一など多くのミュージシャンを手掛ける。

3・26 平凡パンチ

日本初の若者向け男性週刊誌。1964年に創刊された。セクシーなグラビア、新しいファッション動向の紹介記事などとともに、社会問題や、サブカルチャーなども若者の視点で取り上げ、オピニオン誌的側面も持っていた。1988年、休刊。

3・27 吉田拓郎

日本のシンガー・ソングライター。1946年生まれ。1969年、広島フォーク村のオムニバス・アルバム『古い船をいま動かせるのは古い水夫じゃないだろう』に参加。翌1970年に「イメージの詩」でデビュー。その後、「結婚しようよ」「旅の宿」などをヒットさせ、カリスマ的人気を得るとともに、森進一に「襟裳岬」を提供するなど、作家としても活動。1975年にはフォーライフ・レコード設立に参加。その後もマイペースで活動を展開していたが、2022年に引退を宣言。

3-28 ブルース・スプリングスティーン

アメリカのシンガー・ソングライター。1949年生まれ。1973年にアルバム『アズベリー・パークからの挨拶』でデビュー。その後『明日なき暴走』『ザ・リバー』などでロック・シーンのトップ・アーティストとして活躍。精力的なライヴにも定評がある。

3・29 キース・リチャーズ

イギリスのギタリスト。1943年生まれ。1962年に、ミック・ジャガーらとザ・ローリング・ストーンズを結成し、ギタリストとして活動。グループ活動と並行してソロ活動も行っている。

3・30 ピンク・フロイド

イギリスのロック・バンド。1965年に結成され、1967年にレコードデビュー。1970年の『原子心母』など、緻密に構成されたトータル・アルバムを世界的に大ヒットさせてプログレッシブ・ロック・シーンをリードしていく。その後もメンバー・チェンジをしながら世界的人気グループとして活動していたが、1995年に活動停止。

3・31 成毛 滋

日本のギタリスト。1947年生まれ。GSグループ、ザ・フィンガーズのメンバーとして活動。フィンガーズが1969年に解散すると渡米、ウッドストック・フェスティバルを体験。帰国後、ストロベリー・パス、フライド・エッグなどのバンドを結成したが、その後はギターの先生として活動した。2007年、没。

 

 

 

4章 サディスティック・ミカ・バンド

 

4・1 T・REX

イギリスのロック・バンド。1967年、マーク・ボランを中心に結成された。初期はティラノザウルス・レックスというフォーク・ロック色の強いグループだったが、1970年にT・REXと名を変え、ロック色を強めた。その後、『電気の武者』『スライダー』などをヒットさせ、グラム・ロック・シーンをリードした。1977年、マーク・ボランの死によって活動を休止。

4・2 デヴィッド・ボウイ

イギリスのロック・ミュージシャン。1947年生まれ。1969年のアルバム『スペース・オディティ』で注目され、1972年の『ジギー・スターダスト』などの大ヒットでグラム・ロックの象徴的存在となる。その後も、ソウル・ミュージックに傾倒しながらクリエイティブな音楽表現を追求していった。2016年、没。

4・3 ハマースミス・オデオン

1932年にオープンしたロンドンの劇場。最初は映画館だったが1960年代以降、ビートルズをはじめとするロック・ミュージシャンのコンサート会場として使用される。現在は、ハマースミス・アポロと名を変えている。

4・4 ロキシー・ミュージック

イギリスのロック・バンド。ブライアン・フェリーを中心に結成され、1971年に活動開始。グラム・ロック・バンドとして受け入れられたが、退廃的美学を感じさせる独特の音楽性で、グラム・ロック衰退後も人気を保った。1976年に解散するが、1978年に復活し1983年まで活動を続けた。ブライアン・フェリーはロキシー・ミュージックと並行してソロ活動も行っている。

4・5 グラム・ロック

1970年代初期にイギリスで流行したロックのスタイル。グラムはグラマラス(魅惑的な)の略と言われる。男でもメイクをしたり中性的なファッションによって妖しい雰囲気を演出していったが、音楽性は必ずしも一定ではなかった。グラム・ロックの主なアーティストに、T・REX、デヴィッド・ボウイ、ロキシー・ミュージック、モット・ザ・フープルなどが居た。

4・6 高中正義

日本のギタリスト、音楽プロデューサー。1953年生まれ。1971年にギタリストとしてデビュー。同年、フライド・エッグにベーシストとして参加したが、その後、サディスティック・ミカ・バンドのギタリストとなる。サディスティック・ミカ・バンド解散後、ソロ・ギタリストとして活動している。

4・7 アルヴィン・リー

イギリスのロック・ギタリスト。1944年生まれ。ブルース色の強いハード・ロック・バンド、テン・イヤーズ・アフターでデビュー。超絶的な速弾きで脚光を浴び、1969年のウッドストック・フェスティバルでも圧倒的な人気を博した。1974年にテン・イヤーズ・アフターが解散したのちも、ブルースやアメリカ南部の音楽への傾倒を感じさせる作品を作り続けた。2013年、没。

4・8 小原 礼

日本のベーシスト、音楽プロデューサー。1951年生まれ。10代から髙橋幸宏らと活動していたが、1972年にサディスティック・ミカ・バンドに参加。バンド活動と並行して、バンブー、カミーノなどのセッショングループで活動。その後、アメリカに渡って多くのミュージシャンとの共演も行っている。

4・9 高橋幸宏

日本のドラマー、アーティスト。1952年生まれ。小学生の時にドラムをはじめ、高校生時代にはスタジオ・ミュージシャンの仕事もしていた。1972年にサディスティック・ミカ・バンドに参加。解散後はソロ・アーティストとしての活動やセッションを行っていたが、1978年に細野晴臣、坂本龍一とイエロー・マジック・オーケストラを結成し世界的評価を受ける。その後もさまざまなユニットを通じて活発な音楽活動を行っていった。2023年、没。

4・⒑ 林 立夫

日本のドラマー。1951年生まれ。アマチュア時代、小原礼、鈴木茂らとバンドを組んでいたが、1973年に細野晴臣、鈴木茂、松任谷正隆とキャラメル・ママを結成。その後も多くのレコーディングに参加している。

4・11 松任谷正隆

日本の音楽プロデューサー。1951年生まれ。吉田拓郎のアルバム『人間なんて』のレコーディング参加をきっかけにキーボード奏者として活動。1973年にキャラメル・ママ結成に参加。その後、アレンジャー、プロデューサーとして松任谷由実をはじめとする多くの作品を手掛けている。

4・12 今井 裕

日本のキーボーディスト、音楽プロデューサー。1949年生まれ。ロック・キャンディーズに参加していた時に加藤和彦と知り合う。さまざまな演奏活動を行いながら、1972年にキャプテン・ヒロ&スペースバンドに参加。1974年にはサディスティック・ミカ・バンドに参加する。サディスティック・ミカ・バンド解散後も、キーボーディスト、音楽プロデューサーとして活躍している。

4・13 プラスティック・オノ・バンド

ジョン・レノンとオノ・ヨーコ夫妻のバンドとして1969年に結成された。プラスティック・オノ・バンドとしてのライヴも行われたが、ジョンとヨーコ以外のメンバーは流動的だった。また、プラスティック・オノ・バンドとしてのレコーディングの他、ジョン・レノンやオノ・ヨーコのソロ・レコーディングの参加メンバーにプラスティック・オノ・バンドの名前が使われた。

4・14 ウィングス

ポール・マッカートニーとリンダ・マッカートニーの夫婦を中心に結成されたバンド。結成は1971年だが、1973年にリリースしたアルバム『バンド・オン・ザ・ラン』などで世界的な脚光を浴びる。ウィングスはメンバー・チェンジを重ねながらも本格的バンドとして活動し、大規模なツアーも行ったが、1981年に解散した。

4・15 景山民夫

日本の作家。1947年生まれ。学生時代、モダン・フォーク・フェローズのベーシストとしてレコード・デビュー。その後、放送作家となり、「シャボン玉ホリデー」「タモリ倶楽部」など多くのテレビ番組を手掛ける。作家、エッセイストとしても活躍し、1988年に『海から来たCOO』で直木賞を受賞。1998年、没。

4・16ショーファー、バトラー

ショーファーはお抱え運転手。バトラーは家政を取り仕切る執事。

4・17 コンバーチブル

折り畳み式の屋根や幌をもった自動車のこと。

4・18 クリエイション

日本のロック・バンド。1969年に結成されたブルース・クリエイションを前身として、1972年にギタリストの竹田和夫を中心に結成された。日本を代表するハード・ロック・バンドとして活躍したが、1984年に解散。

4・19 上田正樹

日本のシンガー。1949年生まれ。1974年、上田正樹とサウス・トゥ・サウスを結成。関西を中心にソウル・ミュージックのムーブメントを巻き起こす。1976年にサウス・トゥ・サウスを解散し、ソロ・シンガーとして活動。「悲しい色やね」などのヒット曲を持つ。インドネシア、韓国などでも人気を得ている。

4・20 永井充男

日本のギタリスト。1950年生まれ。ロック・バンド、ジプシー・ブラッドのギタリストとして1972年にレコード・デビュー。その後、一時、サディスティック・ミカ・バンドにも参加したが、1974年に金子マリとバックス・バニーを結成。1985年には宇崎竜童が結成した竜童組に参加するなど、第一線ギタリストとして活動。

4・21 バンブー

日本のセッション・バンド。1974年に、林立夫(ドラムス)、小原礼(ベース)、大村憲司(ギター)、ジョン山崎(キーボード)らによって結成され、ライヴを中心に1年間ほど活動を行った。

4・22 マルコム・マクラレン

イギリスのロック・オーガナイザー。1946年生まれ。ブティックを開いたり、アメリカのバンド、ニューヨーク・ドールスのマネージャーをするなど、1970年代初期のイギリスのポップ・カルチャーをリードする。その後、セックス・ピストルズのマネージャーとなり、パンク・ムーブメントを牽引した。1980年代には自らもレコードをリリースするなどしたが、2010年、没

4・23 泉谷しげる

日本のシンガー・ソングライター。1948年生まれ。1971年に『泉谷しげる登場』でデビュー。1972年に「春夏秋冬」をヒットさせて脚光を浴びる。1975年、吉田拓郎らとフォーライフ・レコードを設立するが1977年に離脱。シンガー・ソングライターとして精力的に活動するとともに、俳優としても高く評価されている。

4・24 奥村靫正

日本のグラフィック・デザイナー。1947年生まれ。1970年にデザイン・ユニット、WORKSHOP MUを設立。サディスティック・ミカ・バンド、山下達郎、加藤和彦など多くのミュージシャンのレコード・ジャケット・デザインを手掛ける。また、YMOのアート・ディレクションも手がけている。

4・25 クリス・トーマス

イギリスの音楽プロデューサー。1947年生まれ。1968年、ビートルズの『ホワイト・アルバム』のアシスタント・プロデューサーになったのをきっかけに、プロコル・ハルム、ピンク・フロイド、ロキシー・ミュージック、エルトン・ジョンなどの作品をプロデュースする。サディスティック・ミカ・バンドのアルバムのプロデュースも手がけている。

4・26 (ブライアン・)イーノ

イギリスの音楽家、プロデューサー。1948年生まれ。ロキシー・ミュージックでシンセサイザーを担当。1973年に脱退し、ソロ活動。1978年の『アンビエント1/ミュージック・フォー・エアポーツ』でアンビエント・ミュージックという概念を打ち出す。プロデューサーとしても、トーキング・ヘッズ、U2など多くのミュージシャンを手掛けている。

4・27 プロコル・ハルム

イギリスのロック・バンド。キーボード奏者のゲイリー・ブルッカーを中心に1967年に結成され、「青い影」のヒットで注目された。その後『月の光』『ソルティ・ドッグ』などクラシカルな雰囲気をもつ作品を発表。1977年に解散したが、1991年に再結成している。

4・28 バッド・フィンガー

イギリスのロック・バンド。1968年にビートルズのアップル・レコードから、アイビーズの名で「メイビー・トゥモロウ」をリリース。その後、バンド名をバッド・フィンガーと変えて活動。1975年、中心メンバーのピート・ハムの死によって活動を停止。代表曲に「ウィズアウト・ユー」がある。

4・29 テレックス

タイプライター式の遠距離通信の機械。1930年代に誕生し、国際的な通信に使用されたが、ファックスなどの普及で使用されなくなった。

4・30 ローリングストーン

アメリカの音楽文化誌。1967年に創刊された。音楽シーンの動きを中心に、その背景となるカルチャーや社会問題までを視点に入れて編集されている。

4・31 ビルボード

アメリカの週刊音楽業界誌。1894年創刊。最初は遊園地などのエンターテイメント紹介誌だったが、次第に音楽専門誌となる。ホット100と呼ばれるヒット・チャートを毎号掲載することで、レコード業界に対する大きな影響力を持った。

4・32 オリコン(オリジナルコンフィデンス)

日本の音楽業界誌。1967年に創刊され、週刊誌スタイルでレコードの売り上げチャート、音楽業界動向などを掲載した。

4・33 後藤次利

日本のベーシスト、音楽プロデューサー。1952年生まれ。最初はギターを弾いていたがベースを頼まれたことをきっかけにベーシストとなる。林立夫、松任谷正隆らと小坂忠のバックバンド、フォージョーハーフで活動した後、さまざまなセッションに参加。1975年、小原礼の後を受けサディスティック・ミカ・バンドに参加。その後、ベーシストとしてだけでなく、作・編曲家、音楽プロデューサーとして活躍している。

4・34 麻布十番温泉

東京・麻布十番商店街にあった温泉。地下500メートルから温泉を汲み上げた。1949年に開業し、2008年まで営業されていた。

4・35 鋤田正義

日本の写真家。1938年生まれ。広告代理店を経て、1960年代後半にはファッションの仕事を手掛ける。その後、音楽関係の写真も手がけるようになり、デヴィッド・ボウイ、T・REX、サディスティック・ミカ・バンド、YMOなどのフォト・セッションで世界的に高い評価を受けている。

4・36 内田裕也

日本のロック・アーティスト。1939年生まれ。1950年代のロカビリー・ブームの中、歌手としてデビュー。1960年代もロック色の強い歌手として活動。1967年にフラワーズを結成し、1971年、本格的ロック・バンド、フラワー・トラべリン・バンドをプロデュース。また、1974年の郡山ワン・ステップ・フェスティバルをはじめ、多くのライヴ・イベントをプロデュースしている。2019年、没。

4・37 サディスティック・ユーミン・バンド

1985年6月15日、国立競技場で行われた国際青年年記念イベント『オール・トゥギャザー・ナウ』のために編成されたスペシャル・バンド。加藤和彦、高橋幸宏、高中正義、後藤次利、坂本龍一、ヴォーカルに松任谷由実というメンバーだった。

4・38 リチャード・ブランソン

イギリスの起業家。1950年生まれ。1970年にヴァージン・レコードを立ち上げ、マイク・オールドフィールド、セックス・ピストルズなど多くの新しい才能を世に送り出す。また1974年にはヴァージン・アトランティック航空を設立し、航空ビジネスに進出するなど、多くの業種で事業を展開している。

4・39 山口小夜子

日本のファッション・モデル、パフォーマー。1949年生まれ。1971年にファッション・モデルとしてプロデビュー。1972年にはアジア人で初めてパリ・コレクションに出演。ヨーロッパで圧倒的人気を得た。2007年、没。

4・40 團伊玖磨

日本の作曲家。1924年生まれ。終戦後に作曲を始め、交響曲、オペラ、映画音楽などを手掛けた。『夕鶴』は、木下順二の民話劇の音楽として1949年に書き下ろされた。その後オペラ化され、1952年に初演されている。エッセイスト、作家としても活躍。2001年、没。

4・41 黛 敏郎

日本の作曲家。1929年生まれ。1951年、日本初の長編カラー映画『カルメン故郷へ帰る』の主題歌を作曲。民族音楽や前衛音楽の技法を取り入れながら日本的音楽表現を追求、代表曲『涅槃交響曲』をはじめ、オペラ、バレエ音楽など多彩な作品を手掛けていった。1997年、没。

4・42 市川猿之助(三代目)

歌舞伎役者。1939年生まれ。1968年に『義経千本桜』で宙乗りを行うなど、近年すたれていた江戸歌舞伎のけれん(大がかりで奇抜な演出)を復活させた見ごたえのある演出で、歌舞伎の革新に力を注いだ。さらに、1986年にはまったく新しいスペクタクルにあふれたスーパー歌舞伎を打ち出す。2011年、市川亀治郎に四代目市川猿之助を襲名させ、自らは二代目市川猿翁を襲名。2023年、没。

4・43 服部良一

日本の作曲家。1907年生まれ。1920年代に大阪でサックス奏者、編曲家として活動。その後上京し、淡谷のり子の「別れのブルース」をはじめ多くのヒット曲を生み出す。終戦後も「青い山脈」など、モダンな感覚の作品を精力的に発表していく。また、レコード大賞創設にも尽力した。1993年、没。「銀座カンカン娘」は1949年に公開された同名映画の主題歌として作られた作品。歌は高峰秀子。

4・44 「月の法善寺横丁」

歌手、藤島恒夫の1960年のヒット曲。作詞 十二村哲・作曲 飯田景応。

4・45 村井邦彦

日本の作曲家、音楽プロデューサー。1945年生まれ。1960年代後期にGSの楽曲を手掛け、テンプターズの「エメラルドの伝説」などのヒット曲を生み出す。1970年代には、赤い鳥の「翼をください」など作曲家としても活動する一方、プロデューサーとしてガロ、赤い鳥、荒井由実らを世に送り出す。1977年にアルファ・レコードを設立し、YMO、サーカスなどの作品をリリース。その後、活動の拠点をアメリカに移している。

4・46 雪村いづみ

日本の歌手。1937年生まれ。中学卒業後プロとして歌いはじめ、1953年に「想い出のワルツ」でデビュー。美空ひばり、江利チエミとともに三人娘として人気を集めた。その後も、洋楽を中心として歌手活動を続けている。1974年には、服部良一の曲をキャラメル・ママの演奏で歌うアルバム『スーパー・ジェネレイション』を発表し、世代を超え、注目を集めた。

4・47 キャラメル・ママ

はっぴいえんどが解散した1973年。ソロアルバム『HOSONO HOUSE』を発表した細野晴臣が、レコーディングに参加した鈴木 茂、松任谷正隆、林立夫とともに結成したグループ。サウンド・プロデュース・ユニットとして、荒井(松任谷)由実、南正人、遠藤賢司など多くのアーティストのレコーディングやライヴに参加した。その後、キャラメル・ママはティン・パン・アレーへと発展していった。

 

 

 

5章 ソロ後期

 

5・1 安井かずみ

日本の作詞家。1939年生まれ。1960年代初期から洋楽曲の訳詞や作詞を手掛け、1965年に伊東ゆかりの「おしゃべりな真珠」でレコード大賞作詞賞を受賞。その後も小柳ルミ子の「わたしの城下町」など数多くのヒット曲を生んでいる。私生活の奔放さも知られていたが、1977年に加藤和彦と結婚し、公私ともにパートナーとして活動する。1994年、没。

5・2 マッスル・ショールズ(・サウンド・スタジオ)

アメリカのレコーディング・スタジオ。アラバマ州マッスル・ショールズに1969年に設立されたレコーディング・スタジオ。ロジャー・ホーキンス(ドラムス)、ジミー・ジョンソン(ギター)、デヴィッド・フッド(ベース)、バリー・ベケット(キーボード)というハウス・バンドが作り出すサウンドを求めて、ボブ・ディラン、ポール・サイモン、ボズ・スキャッグスなど多くのシンガーがレコーディングに訪れた。

5・3 ポール・サイモン

アメリカのシンガー・ソングライター。1941年生まれ。1955年、幼馴染のアート・ガーファンクルとデュオ・グループ、トム&ジェリーを結成。彼らは後にサイモン&ガーファンクルとなり1966年の「サウンド・オブ・サイレンス」などを大ヒットさせるが1970年に解散。その後、ソロ活動を展開し、『時の流れに』『グレイスランド』などのベストセラー・アルバムを生み出している。

5・4 エルトン・ジョン

イギリスのロック・ミュージシャン。1947年生まれ。1969年にソロ・デビューし、『僕の歌は君の歌』『黄昏のレンガ路』などのアルバムを大ヒットさせ、世界的な人気者となった。自分では作詞はせず、バーニー・トゥーピンなどの作詞家と組んでソング・ライティングを行っている。また、ピアノの弾き語りというスタイルでステージを行っている。1972年に発表されたアルバム『ホンキー・シャトー』は、加藤和彦が『ベル・エキセントリック』を制作したパリのシャトー・スタジオでレコーディングされている。

5・5 ミック・ジャガー

イギリスのロック・ミュージシャン。1943年生まれ。1963年、ローリング・ストーンズのヴォーカリストとしてレコード・デビュー。「サティスファクション」「黒くぬれ」など多くのヒット曲をもち、世界最高のロック・バンドとして現在も活動を続けている。ローリング・ストーンズの活動と並行してソロ活動も行っている。

5・6 坂本龍一

日本のミュージシャン。1952年生まれ。東京芸術大学在学中にフォークやロック・ミュージシャンとも交流してレコーディングやセッションを行う。1978年に、細野晴臣、高橋幸宏とイエロー・マジック・オーケストラ(YMO)を結成。映画『戦場のメリークリスマス』に出演するとともに音楽を担当。1987年には映画『ラスト・エンペラー』でアカデミー賞作曲賞を受賞するなど、世界的作曲家として高く評価されている愛称は「教授」。2023年、没。

5・7 鈴木 茂

日本のギタリスト、音楽プロデューサー。1951年生まれ。高校生時代に小原礼、林立夫とバンドを結成。1969年、はっぴいえんどに参加。はっぴいえんど解散後はキャラメル・ママ、ティン・パン・アレーのメンバーとして活動すると同時にソロ・アーティストとしても活躍。その後も、アーティスト、ギタリスト、アレンジャー、プロデューサーとして活動している。

5・8 アントニオ・カルロス・ジョビン

ブラジルの作曲家、ミュージシャン。1927年生まれ。1950年代から作曲家として活動していたが、1959年にジョアン・ジルベルトが歌った「想いあふれて」によってボサ・ノヴァを生み出す。その後「イパネマの娘」「デサフィナード」など、スタンダードとなったボサ・ノヴァの名曲を多数手掛けた。1994年、没。

5・9 渡辺香津美

日本のギタリスト。1953年生まれ。ジャズ・ギタリストとして1971年にレコード・デビュー。ジャズ・グループで活動する一方、1979年に坂本龍一らとグループ、KYLYNを結成して活動。同年行われたYMOの最初の世界ツアーにも参加している。その後も、内外のミュージシャンと共演するなど、精力的に活動を続けている。

5・⒑ カクトウギ・セッション

日本のセッション・ユニット。1979年頃、坂本龍一がYMOと並行して行っていたセッショングループ。メンバーは固定していなかったが、坂本龍一(キーボード)、矢野顕子(キーボード)、大村憲司(ギター)、小原礼(ベース)、高橋幸宏(ドラムス)のほか、山下達郎、渡辺香津美、松原正樹、ベッカーなどが参加。カクトウギ・セッション名義でアルバム『サマー・ナーヴス』がリリースされている。

5・11 フィル・スペクター

アメリカの作曲家、音楽プロデューサー。1939年生まれ。1950年代にはテディ・ベアーズというグループでデビューしていたが、1960年代にプロデューサーとしてフィレス・レコードを設立。ウォール・オブ・サウンドと呼ばれる独特の音作りでロネッツの「ビー・マイ・ベイビー」、クリスタルズの「ダ・ドゥー・ロン・ロン」など多くのヒット曲を生み出した。その後、ビートルズのアルバム『レット・イット・ビー』のプロデュースも行っている。2021年、没。

5・12 向井滋春

日本のトロンボーン奏者。1949年生まれ。学生時代からジャズ・トロンボーン奏者として活動、1976年にプロデビュー。内外の多くのプレイヤーとも共演し、渡辺香津美のKYLYNにも参加していた。最近はチェリストとしても活躍している。

5・13 稲垣次郎

日本のサックス奏者。1933年生まれ。1950年代から日本のジャズ・シーンで活躍。1960年には稲垣次郎とソウルメディアを結成、グループの活動とともに、セッション・プレイヤーとしても活動。

5・14 笠井紀美子

日本のジャズ・シンガー。1945年売れ。1964年頃から本格的活動を始め、スタンダード・ジャズを中心に歌っていたが、1970年代に入りオリジナル・ロックアルバム『アンブレラ』など、ジャズだけでなく幅広いフィールドの作品も手掛けるようになる。1978年以降、アメリカに活動拠点を移す。現在は、歌手を引退し、宝飾デザイナーとして活動している。

5・15 クラウス・オガーマン

ポーランド出身のアレンジャー。1930年生まれ。1960年頃に渡米し、ジャズやポップ・ミュージックのアレンジャーとして活動。アントニオ・カルロス・ジョビンの『波』、ジョージ・ベンソンの『ブリージン』などの名盤のストリングス・アレンジを手掛けている。2016年、没。

5・16 コシノジュンコ

日本のファッション・デザイナー。1939年生まれ。1960年からファッション・デザイナーとして活躍。姉のコシノヒロコ、妹のコシノミチコもデザイナーとして活動している。

5・17 ミヤケイッセイ(三宅一生)

日本のファッション・デザイナー。1938年生まれ。学生時代から頭角を現していたが、その後パリで修業したのち、1970年に帰国して本格的活動をスタートさせる。1973年にはパリ・コレクションに参加し、世界的な脚光を浴びる。その後も第一線のファッション・デザイナーとして活躍。2022年、没。

5・18 新田和長

日本の音楽プロデューサー。1945年生まれ。大学時代に結成したカレッジ・フォーク・グループ、ザ・リガニーズで、1968年に「海は恋してる」をヒットさせる。翌年、東芝音楽工業に入社、ディレクターとしてオフコース、RCサクセション、チューリップなど多くの新しいミュージシャンを手掛ける。1984年、レコード会社ファンハウスを設立。さらに2001年にはドリーミュージックを設立した。

5・19 折田育三

日本の音楽プロデューサー。1941年生まれ。1965年に日本グラモフォンに入社し、欧米の新しいロックの流れを日本に紹介する。その後、ワーナー・ジャパンに移り、洋楽のムーブメント、さらに日本の新たな音楽ムーブメントのバックアップも積極的に行った。2021年、没。

5・20 アーネスト・ヘミングウェイ

アメリカの作家。1899年生まれ。カナダの新聞特派員としてパリ滞在中に作家、ガートルード・スタインと出会って小説家としての活動を始める。スペイン内戦に関わり『武器よさらば』などを執筆。その後、フロリダ州キーウエストやキューバに居をかまえながら作家活動を続け、『老人と海』などの名作を発表。1954年にノーベル文学賞を受賞。1961年、没。

5・21 イエロー・マジック・オーケストラ(YMO)

細野晴臣、坂本龍一、高橋幸宏によって、1978年に結成された。コンピューターによるエキゾティック・ディスコ・ミュージックをコンセプトに同年アルバム『イエロー・マジック・オーケストラ』を発表。アルバムのアメリカ発売をきっかけに、ワールドツアーを成功させるなど、世界的脚光を浴びた。1983年に解散(散開)するが、その後も数回にわたって再生(再結成)した。

5・22 大村憲司

日本のギタリスト。1949年生まれ。1972年、コーラス・グループの赤い鳥にギタリストとして参加。その後、セッショングループ、バンブー、カクトウギ・セッションなどに参加するなど、セッション・ギタリストとして活動する一方、ソロ・アルバムもリリースしている。1998年、没。

5・23 矢野顕子

日本のシンガー・ソングライター。1955年生まれ。高校生時代からピアニストとして活動し、1974年にザリバというグループでシングル「或る日」をリリース。1976年、アルバム『ジャパニーズ・ガール』でレコード・デビュー。ソロ活動と並行して、カクトウギ・セッションやYMOのステージにも参加。現在はアメリカに在住しながら活動を続けている。

5・24 構成主義

1920年代にロシアでスタートした前衛的なデザイン運動。その後、ドイツ、オランダなどで展開されたデザイン運動も、広い意味で構成主義と言われることもある。

5・25 クラフトワーク

ドイツのエレクトロニック・ポップ・グループ。1970年に結成され、1971年にアルバム『クラフトワーク』を発表。1974年の『アウトバーン』で世界的に注目され、エレクトロニクスを使ったポップ・ミュージックの可能性を示す。その後も『ヨーロッパ特急』『人間解体』などをヒットさせ、テクノ・ポップの道を開いた。

5・26 巻上公一

日本の音楽家、パフォーマー。1956年生まれ。演劇活動を経て、1978年にバンド、ヒカシューを結成。アルバム『民族の祭典』をはじめ独自の世界を展開している。ヒカシューと並行して、俳優、パフォーマーとしての活動も展開している。

5・27 佐藤奈々子

日本のミュージシャン、写真家。1955年生まれ。アマチュア時代、佐野元春と活動していたが、1977年にアルバム『ファニー・ウォーキン』でデビュー。シンガー・ソングライターとして活動していたが、1980年にバンドSPYを結成。同年、加藤和彦プロデュースによりアルバム『SPY』を発表。その後、写真家として活動するが、音楽活動も行っている

5・28 エリック・クラプトン

イギリスのロック・ギタリスト。1945年生まれ。1960年代、いくつかのバンドを経てヤードバーズのギタリストとして注目される。その後、クリーム、ブラインド・フェイス、デレク・アンド・ドミノスなどのグループを経てソロ活動に入り、「アイ・ショット・ザ・シェリフ」などをヒットさせ、ソロ・アーティストとしての評価を確立させる。「ティアーズ・イン・ヘヴン」は、息子の死をきっかけに作られ、1992年に発表されたエリック・クラプトンの代表曲のひとつ。

5・29 ジャン・コクトー

フランスの芸術家。1889年生まれ。1909年に詩集『アラジンのランプ』を発表後、パリを拠点に詩人、小説家、劇作家として活動。ココ・シャネル、ピカソ、サティなど、多くの芸術家と親交を結ぶ。1930年代からは映画監督として『詩人の血』『オルフェ』など独自の美学をもった作品を残している。1963年、没。

5・30 コンバット

アメリカのテレビドラマ。第二次大戦後期のヨーロッパ戦線を舞台に、米軍兵士を主人公にした連続ドラマで、1962年から日本でも放映され、人気を博した。

5・31 エリック・サティ

フランスの作曲家。1866年生まれ。1880年代から作品を発表。それまでの作曲技法にとらわれない革新的な手法で、後の印象派や現代音楽の作曲家に大きな影響を与えた。代表作として『3つのジムノペディ』『ジュ・トゥ・ヴー』などがある。1925年、没。

5・32 高橋悠治

日本の作曲家。1938年生まれ。1960年に現代音楽のピアニストとしてデビュー。その後、作曲家として精力的に作品を発表するとともに、ピアニストとしてバッハ、ジョン・ケージ、サティ、ドビュッシーなどの作品もレコード化している。さらに、1978年にはアジア民衆の抵抗歌を紹介する水牛楽団を結成し、ライヴ活動にも力を入れた。

5・33 スネークマンショー

音楽プロデューサーの桑原茂一とDJの小林克也によるユニットで、のちに伊武雅刀が参加。1975年頃からラジオを中心に活動し、1980年、YMOのアルバム『増殖』に参加して話題となり、1981年にはスネークマンショー名義のアルバムもリリースしている。

5・34 ジェネシス

イギリスのロック・バンド。1967年にピーター・ガブリエルを中心に結成された。プログレッシブ・ロック・バンドとして高い評価を得たが、1975年にピーター・ガブリエルが脱退。その後はフィル・コリンズが中心になり、よりポップなサウンドで人気を集めたが、1998年に活動停止。

5・35 金子國義

日本の画家。1936年生まれ。学生時代から舞台美術を手掛けるとともに、1960年代から画家として作品を発表。耽美的なエロティシズムを感じさせる独特の絵画で注目された。1970年代には雑誌『婦人公論』をはじめ、書籍の表紙画や装丁も行うなど、多角的な活動を展開。2015年、没。

5・36 マウリッツ・エッシャー

オランダの画家。1898年生まれ。1920年代から作品を製作し始める。その後、スペインのアルハンブラ宮殿を訪れて強い影響を受け、モザイクやパターンを多用した作品を作るようになる。幾何学模様やだまし絵的要素を取り入れた作品は、第二次世界大戦後に世界的な評価を受けるようになる。1972年、没。

5・37 特色

印刷用語。通常のカラー印刷は、赤、黄、青、黒の4色のインクをかけ合わせて色を作るが、4色のかけあわせでは作りにくい色を、あらかじめその色に調合されたインクで印刷することを、特色を使うという。

5・38 渡邊かをる

日本のグラフィック・デザイナー。1943年生まれ。VANヂャケットでアート・ディレクターを務めた後、デザインオフィスを設立し活動。加藤和彦のレコード・ジャケットも手がけている。

5・39 ミッキー・カーティス

日本の歌手、音楽プロデューサー。1938年生まれ。戦後、米軍キャンプ廻りを経てロカビリー歌手として日劇ウエスタンカーニバルなどに出演。1960年代にはバンド、ミッキー・カーティスとサムライを結成して活動。その後音楽プロデューサーとして、ガロ、キャロルなどをデビューさせる。俳優としても活動している。

5・40 永島達司

日本の音楽プロデューサー。1926年生まれ。1950年代から海外ミュージシャンの招聘業務に携わり、ザ・ビートルズの日本公演を手掛けたことでも知られる。1970年代以降はキョードー東京として海外や国内のミュージシャンのコンサートを手掛ける。1999年、没。

5・41 周防郁雄

日本の音楽プロデューサー。1941年生まれ。1960年代からプロダクション業務に携わり、1971年にバーニング・プロダクションを設立し、多くのミュージシャンを手掛ける。

5・42 中井國二

日本の音楽プロデューサー。1960年代には、ザ・タイガースのマネージャーを務め、その後、永井龍雲をデビューさせるなど、多くのミュージシャンを手掛けた。2011年、没。

5・43 牧村憲一

日本の音楽プロデューサー。1946年生まれ。1970年、小室等と六文銭のマネージャーとなる。その後、大貫妙子、竹内まりや、加藤和彦などを手掛け、1980年代にはピチカート・ファイブ、1990年代にはフリッパーズ・ギターなどを世に送り出している。

5・44 BORO

日本のシンガー・ソングライター。1954年生まれ。1979年、内田裕也プロデュースの「都会千夜一夜」でレコード・デビュー。同じ年、「大阪で生まれた女」が大ヒットする。その後もソロ活動と並行して、ソングライターとして多くの楽曲を提供している。

5・45 EX

日本のロック・バンド。梅林茂(ギター)、奈良敏博(ベース)、羽山伸也(ドラムス)により結成され、1981年にカメリア・レコードからデビュー。その後、松田優作のバック・バンドを務めたりするが、グループとしての活動はあまりなく1984年に解散。

5・46 横尾忠則

日本の画家、デザイナー。1936年生まれ。1956年、神戸新聞社に入社。その後、上京してデザイナーとして活動。寺山修司の劇団、天井桟敷の美術を手掛けるなど国際的に大きな注目を浴び、1972年にはニューヨーク近代美術館で個展が開催される。アメリカのロック・バンド、サンタナのアルバム『ロータスの伝説』やマイルス・ディヴィスの『アガルタ』などのジャケットデザインも手掛けている。

5・47 ウィリー・ウィークス

アメリカのベーシスト。1947年生まれ。1970年代からセッション・ベーシストとして活躍。ダニー・ハサウェイ、ジョージ・ハリスン、エリック・クラプトンなど多くのミュージシャンと共演して名演を残している。1980年代にはドゥービー・ブラザーズに在籍していたこともある。

5・48 清水信之

日本のキーボード奏者、アレンジャー。1959年生まれ。高校卒業後、スタジオ・ミュージシャンの仕事を始める。1980年、EPOのデビュー・アルバムの編曲を担当したのをきっかけに、アレンジャーとして本格的に活動。大江千里を始め、多くのミュージシャンのサウンドを手掛けている。

5・49 白川隆三

日本の音楽プロデューサー。1968年、CBSソニー設立時に入社。ディレクターとして太田裕美をはじめ、多くのミュージシャンを手掛ける。その後、ソニー・ピクチャーズの設立にも参画するなど、映像作品も手掛けている。

5・50 石坂敬一

日本の音楽プロデューサー。1945年生まれ。1968年に東芝音楽工業に入社。洋楽ディレクターとしてピンク・フロイドなどを手掛けた後、邦楽でも加藤和彦、BOØWYなどを手掛ける。1994年に東芝EMIを退社するが、その後も日本のレコード業界のトップとして活躍した。2016年、没。

5・51 キッド・クレオール

アメリカのミュージシャン。別名オーガスト・ダーネル。1950年生まれ。1976年ドクター・バザーズ・オリジナル・サバンナ・バンドを結成。スウィング・ジャズとディスコ・サウンドを融合させたスタイリッシュなスタイルを打ち出す。その後、オーガスト・ダーネルはキッド・クレオールと名乗り、1980年にキッド・クレオール&ココナッツを結成し、ラテンとファンクをミックスさせたスタイルを打ち出した。

5・52 マイケル・ボルトン

アメリカのシンガー・ソングライター。1953年生まれ。ハード・ロック・バンドなどを経て、1983年にソロ・アルバムを発表。それ以降、ソウル・ミュージックのテイストを持つAOR(大人のロック)シーンを牽引する存在として活躍している。他の歌手に楽曲を提供する一方、オーティス・レディング、パーシー・スレッジなどのソウルの名曲をカヴァーしてヒットさせている。

5・53 マーク・ゴールデンバーグ

アメリカのミュージシャン。1952年生まれ。1975年にエディ・ボーイ・バンドでデビュー。その後、ニューウェイブ・バンド、クリトーンズの中心メンバーとして注目を集め、ソングライターとしてもリンダ・ロンシュタットなど多くのミュージシャンに作品を提供する。その後ソロ・アーティストとして活動する一方、ギタリストとして多くのセッションに参加。

5・54 シャルル・アズナブール

フランスのシャンソン歌手。1924年生まれ。子供時代から活動していたが、エディット・ピアフに認められて脚光を浴び、1952年にソロ歌手となる。自ら曲も作り、「イザベル」「ラ・マンマ」など多くのヒット曲を生み出す。現代シャンソンの中心的存在。2018年、没。

5・55 ダシール・ハメット

アメリカのミステリー作家。1894年生まれ。1920年代から作家活動を始め、ハードボイルドと呼ばれるスタイルを生み出していく。代表作に『血の収穫』『マルタの鷹』などがある。1961年、没。

5・56 アル・シュミット

アメリカのレコーディング・エンジニア。プロデューサー。1950年代からエンジニアとして活動し、1960年代にはプロデューサーとしても活躍。その後、ロサンゼルスを本拠地に、ミュージシャンの信頼を受け、エンジニア、プロデューサーとして多くの作品を手掛けている。代表作は、ジョージ・ベンソンの『ブリージン』、ニックデカロの『イタリアン・グラフィティ』、スティーリー・ダンの『彩』など。2021年、没。

5・57 ニックデカロ

アメリカのアレンジャー。1938年生まれ。1960年代にロサンゼルスでアレンジャーとして活動を始め、サンドパイパーズ、ハーパース・ビザールなどの作品を手掛ける。1970年代にはドゥービー・ブラザーズ、ランディ・ニューマン、マイケル・フランクスなど多くのミュージシャンの作品にかかわる一方、ソロ・アルバム『イタリアン・グラフィティ』でエレガントな世界を展開し、話題となった。1992年、没。

5・58 バート・バカラック

アメリカの作曲家。1928年生まれ。1953年にピアニストとしてデビュー。作曲、アレンジャーとしても活動を始める。作詞家のハル・デヴィッドと組んで作品を作り、ディオンヌ・ワーウィックが歌う「小さな願い」などで脚光を浴びる。転調などを効果的に使った新鮮な作風で多くのヒット曲を送り出している。映画『明日に向って撃て』の音楽担当、主題歌「雨にぬれても」の作曲者としても知られている。2023年、没。

 

 

6章 音楽観

 

6・1 ビリー・ジョエル

アメリカのシンガー・ソングライター。1949年生まれ。バンド活動を経て1971年にソロ・デビュー。1973年にアルバム『ピアノ・マン』がヒットして脚光を浴びる。その後、フィル・ラモーンがプロデュースした『ストレンジャー』を始め、ベストセラー・アルバムを数多く生み出している。

6・2 フィル・ラモーン

アメリカの音楽プロデューサー。1934年生まれ。クラシックのバイオリンを学び、ジュリアード音楽院に進む。その後、スタジオ・エンジニアを経てレコーディング・プロデューサーとして、バート・バカラック、ポール・サイモン、ビリー・ジョエルなど、多くのミュージシャンの作品を手掛けた。2013年、没。

6・3 マイアミ・サウンド

アメリカ、フロリダ州マイアミを中心に生まれたサウンド。1970年代には南部のソウル・ミュージックにカリブ・サウンド、ラテンなどのエッセンスがミックスされたK.C.&サンシャイン・バンドなどに代表されるマイアミ・ソウル、ラテン・ポップス色の強いグロリア・エステファン&マイアミ・サウンド・マシーンなど、多くの人気ミュージシャンを輩出している。

6・4 オノセイゲン

日本の音楽プロデューサー、レコーディング・エンジニア。1958年生まれ。PAエンジニア、レコーディング・エンジニアを経て、作曲家としての活動も行う。エンジニアとして、坂本龍一、吉田美奈子などの作品を手掛けている。

6・5 サザンオールスターズ

日本のロック・バンド。桑田佳祐を中心に結成され、1978年にシングル「勝手にシンドバッド」でレコード・デビュー。洋楽と邦楽の垣根を取り払ったような独自の音楽性で、「いとしのエリー」「涙のキッス」など多くのヒット曲を生み出す。

6・6 ザ・ピーナッツ

日本のデュオ・グループ。伊藤エミ、ユミの双子の姉妹によるデュオ・グループ。1959年にフランスの曲を日本語で歌った「可愛い花」でレコード・デビュー。テレビ番組『ザ・ヒット・パレード』『シャボン玉ホリデー』などにレギュラー出演して人気を集める。レパートリーは、洋楽のカヴァーが中心だったが、後年は「恋のフーガ」などオリジナル曲も増えていった。1975年に引退。

6・7 ジョニ・ミッチェル

カナダ出身のシンガー・ソングライター。1943年生まれ。1960年代に音楽活動を始め、1968年にレコード・デビュー。1970年公開の映画『いちご白書』の主題歌「青春の光と影」の作者として脚光を浴びる(歌手はバフィ・セント・メリー)。その後も、『ブルー』『コート・アンド・スパーク』などの名作をリリースし、高い評価を受けている。

6・8 ワリシン

日本債券信用銀行が発行していた割引金融債権。当時、利殖のために利用された。現在は発行されていない。

6・9 ロニー・スペクター

アメリカのシンガー。1943年生まれ。コーラス・グループ、ロネッツのリード・ヴォーカリストとして1961年にレコード・デビュー。その後、フィル・スペクターのプロデュースにより、「ビー・マイ・ベイビー」などを大ヒットさせるが、1966年に解散。同年、フィル・スペクターと結婚するが、1973年に離婚。その後、シンガーとしての活動を再開させている。2022年、没。

6・⒑ 浅川マキ

日本の歌手。1942年生まれ。米軍キャンプなどでの活動を経て、1967年に「東京挽歌」でデビュー。その後、寺山修司と交流しアンダーグラウンドでの活動スタイルを生み出す。1969年に「夜が明けたら」をヒットさせたが、以降、ライヴを中心としながら独自のスタイルを保って活動を続けたる2010年、没。

6・11 エディット・ピアフ

フランスのシャンソン歌手。1915年生まれ。1930年代から人前で歌う。ジャン・コクトーらの詩人、芸術家と親交を結び、自ら多くの詞を書き、歌っている。「ばら色の人生」「愛の賛歌」をはじめとする彼女の歌は世界中の人びとに愛されたが、1963年、没。

6・12 溝口 肇

日本のチェロ奏者。1960年生まれ。1986年にアルバム『ハーフインチデザート』でレコードデビュー。クラシックだけでなく幅広いフィールドで活動している。作曲家としても活躍。テレビ番組『世界の車窓から』の音楽も手掛けている。

6・13 坂崎幸之助

日本のミュージシャン、ギタリスト。1954年生まれ。1974年、バンド、ジ・アルフィーのメンバーとしてシングル「夏しぐれ」でデビュー。その後、ジ・アルフィーとしての活動と並行して、日本のフォーク・ソングの紹介者としての活動なども行う。2002年のザ・フォーク・クルセダーズ再結成時に参加、2007年には加藤和彦とのユニット、和幸を結成し、2枚のアルバムをリリースしている。